「王よ、間に合ううちに、お引き揚げください! 
王のうちにこそエルダールの最後の望みが生きているのです」

 フーリンが言った。

「ゴンドリンはもはや長く隠れたままではおられぬだろう」

「しかし、今しばらくゴンドリンが倒れずにあれば、
その時は殿の御家からエルフと人間の望みが生まれるでありましょう・・・・」

 フオルの言葉に、トゥアゴンが唇を結ぶ。

 決意を込めて。

 そして、己を守っていた二人の大将に振向いた。

「退却する! 生存者を集めろ、エクセリオン! グロールフィンデル!」

 

 

 

 美しい都、白い隠れ王国、ゴンドリン。

 この平穏がいつまで続くのであろうか。

 フーリンとフオルの言葉を、グロールフィンデルは忘れたことはなかった。
そして王が、王国が永久に繁栄し続けない事を悟っていたことも。

 

 

 

 それでも、春は訪れる。

 こと、トゥアゴンの愛娘、イドリルのもとに。

 彼女はトゥオルと恋に落ち、息子をもうけた。

 それ以上の幸福が、あるであろうか。

「グロールフィンデル! グロールフィンデル!」

 幼子が白い階段を駆け上ってくる。グロールフィンデルは立ち上がり、幼子を迎えた。

「約束! 約束のもの、できた?」

 幼子の笑いというのは、なんと心を暖めてくれるのだろう。腰を落とし、視線を合わせる。

「できましたよ」

 グロールフィンデルの長剣を真似てはいるが、
子供の身長に合うように小さく作られた剣を、エアレンディルに差し出す。
グロールフィンデルが細工師に作られたものだ。

「これで剣を練習なさい。上達したら、刃を磨いでさしあげましょう」

 エアレンディルの後から、ゆっくりとイドリルが登って来る。

「まあ、またわがままを言っていたのね? エアレンディル。
グロールフィンデルを困らせてはだめよ?」

 グロールフィンデルは片手を差し出し、
イドリルの手を取って見晴らしの良いところにある椅子に招いた。

「お母様、見ていて!」

 剣を振り回すエアレンディルに、グロールフィンデルは指先でその刃先を止めた。

「そんなに振りかぶってはだめです。肩の力を抜いて。
・・・・そう。手首を回すように。・・・・よくなった」

 切れない剣の先をそっとなおしてあげながら、
グロールフィンデルは戯れのような剣術の講義を楽しんだ。

 幼いが、すじはいい。きっと、すばらしい剣士になるだろう。

 幼いエアレンディルと過すのは、楽しい。そのそばで、イドリルが微笑みを絶やさない。

 あの合戦で敗北したことは屈辱だが、それで今の満たされた日々を送れるのなら・・・
フーリンとフオルに、いくら感謝してもしきれないだろう。

「またここに来ていたのだな?」

 階段の下で見上げている男に、子供は歓喜の声を上げて走っていった。

「お父様!」

 飛びついてくる子供を片手で抱き上げ、トゥオルはグロールフィンデルに軽く会釈した。

「グロールフィンデル殿、いつもいつも申しわけない」

「いいえ。私もエアレンディルとともに過すのは楽しい」

 再びイドリルの手を取り、グロールフィンデルはトゥオルの元に導いた。
階段を下りると、イドリルは夫の手を取った。

「エアレンディル、先に戻っていなさい。私はグロールフィンデル殿と話があるから」

 イドリルがエアレンディルを抱き上げると、子供は唇を尖らせた。

「ずるい、お父様! 僕もグロールフィンデルとお話をする!」

 グロールフィンデルは微笑み、剣を握っているエアレンディルの手をそっと包み込んだ。

「エアレンディル、練習なさい。お母様を守れるように。
お父様のようにすばらしい武人になれるように。明日、またみてあげよう」

「約束! 約束だからね!」

 グロールフィンデルは肯き、イドリルに目配せすると、
彼女は子供を抱いて王宮に去っていった。

「お茶でも?」

 グロールフィンデルの誘いに、トゥオルは「いただきます」と答えた。

 

 

 

 開け放したポーチの椅子に座り、お茶を持ってこさせる。

 トゥオルは、いつもグロールフィンデルの華やかさに目を奪われる。
輝く黄金の髪の色だけではない。優雅な動作も、豪華な衣装も。
さっきまで会っていたエクセリオンとは対照的なイメージがある。
エクセリオンは・・・まるで泉に映る月の光のようだ。
それぞれに完璧な美しさを持っているが、対として並べると、それはまた格別だ。
トゥアゴン王の両脇に控える彼らを見たとき、そこにエルフの完璧な美を見せられた気がした。

「エクセリオンが、何か?」

 考えていたことを見抜かれてしまったのか、トゥオルは気恥ずかしさに口元をゆがめた。

「・・・・正直に申します。私は・・・・最近不安なのです」

「不安?」

「ええ。私がウルモの導きによってゴンドリンを訪れたのは・・・
それは、私自身が凶報なのではないかと」

 細い指を顎に当て、グロールフィンデルはトゥオルを見つめる。
エクセリオンが認め、トゥアゴンが寵愛しているのだ。十分、信じるに足りる。
きっと、エクセリオンもその話をしたであろう。

 それでも不安を感じるのだとしたら・・・・それは・・・・。

「トゥオル殿、貴方がウルモの導きで訪れたのならば、
それは貴方が凶報なのではなく、我らを救う使命をおびているからです」

「エクセリオン殿にも同じ事を言われました」

「では、そういうことです。・・・・トゥオル殿・・・・何か予感が?」

 トゥオルは軽く首を横に振った。

「いいえ。・・・貴方にならお話してもかまわないでしょう。
妻が、イドリルが、予感を感じているらしいのです」

 イドリルが・・・? グロールフィンデルはわずかに眉根を寄せた。彼女は聡明で賢い。

「わかりました。私も警戒しておきましょう」

「ありがとうございます」

 頭を下げ、トゥオルは立ち上がった。
それから、ふと思い出したようにグロールフィンデルに顔を向ける。

「エアレンディルは、ずいぶんと貴方が好きなようです」

 エアレンディルの名前に、グロールフィンデルが微笑む。

「私も、エアレンディルを愛していますよ。それは・・・予見のせいかもしれませんが」

「予見?」

「トゥアゴン王の血筋から、人間とエルフの希望が生まれ出でると。
もし本当にそうであれば、私はトゥアゴン王と同じように、
エアレンディルのことも命を懸けて守りましょう」

 トゥアゴンは、深く頭を下げた。

 

 

 

 蒼白い月明かりの下、グロールフィンデルはその館を訪れた。

「これはこれは、金華公殿。直々においでくださるとは光栄です」

「冗談はやめにしてくれないか、エクセリオン」

 月の光をいっぱいに浴びたポーチで、彼は月光欲をしていた。
銀色の髪が、月の光を反射する。

「トゥアゴンが訊ねてきたそうだな?」

「君のところにも?」

 エクセリオンはグロールフィンデルに座るように勧めた。

「・・・時が、近付いてきているのだろうか」

 呟くようなグロールフィンデルの言葉に、エクセリオンは笑んで見せた。

「ずいぶんと弱気になっているようだ」

 そんなことを言われて、苦笑する。
ゴンドリンの大将ともあろう者が・・・滅びの時に怯えている。

「グロールフィンデル、君は誰よりゴンドリンを愛しているからね」

 月の光を浴びたエクセリオンが、グロールフィンデルの傍らに立つ。

「君が愛した分だけ、皆が君を愛する。エアレンディルのように」

 エアレンディル。愛しい幼子。

 グロールフィンデルは、己の手のひらを見つめた。

「我らは、戦う為にこの地にやってきた。ヴァラールに背いてまで。
だから、戦いを避けることはできない」

「その通りだ」

 それでも・・・・あまりに多くのものを愛してしまった。失いたくないと切望してしまう。

「・・・怖いのかい?」

「私が怯えては、指揮は取れぬ。主は守れぬ。怖くはない」

「でも、怯えている」

 そっと近付いてくる瞳に、溜息を漏らす。

「己の死ではなく、失うことに。そうだろう?」

「私を蔑むか」

 エクセリオンは微笑み、そっとグロールフィンデルの唇に触れた。

「久しぶりに、楽しもうか」

 触れてくる唇に、戸惑うように顔をそむける。

「終りは、いつやってくるかもわからない。
せめて、残された少ない時間を堪能しようではないか」

「覚悟を・・・決めているのだな」

「愛しているよ、グロールフィンデル。だが君は、私とは違う運命を持っている。
私には、それがわかる。並び立っていられる時間は、残り少ない」

 これが最後になるかもしれない。

 グロールフィンデルは、そっと口づけを返した。  

 

 

 

時は訪れる。

 夏の門の盛大な宴を前に、ゴンドリンは沸き立っていた。

「グロールフィンデル! 一緒に朝日を見に行こう!」

 一人館に残っていたグロールフィンデルの元に、エアレンディルが駆寄ってくる。

「ね、一緒に行こう!」

 少し困った顔をするグロールフィンデルの手を、ぐいぐいと引っ張る。

「また。エアレンディル、グロールフィンデルの邪魔をしてはいけないと教えたでしょう?」

 苦笑したイドリルが子供を抱き上げた。

「夜明けにはまだ時間がありますよ、エアレンディル。少し眠るといい。あとで起してあげます」

 グロールフィンデルの言葉に、エアレンディルは大きなあくびをした。

「本当? では、ここで眠ってもいい?」

「いいですよ。そこにある長椅子で」

 母親の手からすり抜けたエアレンディルは、示された長椅子に横になった。
グロールフィンデルが己のローヴを脱ぎ、子供にかけてやる。
エアレンディルは、それを待っていたかのように目を閉じた。

 エアレンディルの傍らにイドリルが腰掛け、静かに子守唄を歌いながら髪を撫でる。
エアレンディルはすぐに眠りに落ちていった。

 子供が寝入ったのを確め、イドリルはグロールフィンデルに視線を向けた。

「グロールフィンデル・・・・何か、感じるのですか?」

 鋭いイドリルの問いに、グロールフィンデルは口元をゆがめる。

「・・・わかりません。イドリル様は?」

 子供を見やり、また髪を撫でながらイドリルが首を横に振る。

「イドリル様・・・私は、今、この満たされた時を愛しております。
永遠に続くことがないとわかっていても、今日一日、後一日、
この幸福が続くように祈ってしまうのです」

「私もですよ、グロールフィンデル。
この美しい白い都で、誰からも愛され、エアレンディルが幸福な日々を過せるように
・・・・それだけを願って止みません。そう・・・後一日・・・・」

 目を伏せる。

 あと、もう一日・・・・。

 

 月が天上で輝く。宴を待つ歓声が、遠くから聞こえてくる。

 

 ふ、とエアレンディルは目を開けた。
目を閉じた時と同じように、傍らには母が坐り、少し離れた椅子にグロールフィンデルがいる。

 そんなささやかな喜びに、エアレンディルは表情を輝かせた。

「さあ、行きましょうか」

 イドリルが息子に微笑みかける。

「グロールフィンデルは?」

「すぐに行きます。エアレンディル、お母様から離れないように」

「エクセリオンも呼んで来てね!」

「ええ、必ず」

 母の手を握り、エアレンディルは館を出て行った。

 親子の姿を見送った後、グロールフィンデルは夜空を見上げた。

 

 もう一日・・・・この幸福が続きますように・・・・。

 

 

 

 しかし、残酷な運命は、幸福な夜明けをゴンドリンに与えてはくれなかった。

 

 

 

 敗北を伴う戦場を経験しているグロールフィンデルでさえ、その惨劇には胸が裂かれた。

 返り血を浴び、ぼろぼろになったローブを脱ぎ捨てて王宮に向う。

「エクセリオン!」

 グロールフィンデルは叫び、彼が対立していたバルログ、ゴスモグに剣を向ける。

「グロールフィンデル! 王宮へ!!」

 額から血を流しながらエクセリオンが叫ぶ。

「王のもとへ!」

 一人でバルログに立ち向かうなど・・・・! 
グロールフィンデルは反論を飲む込み、身を翻して王の元に走った。

 

 そこでは、壮絶な戦いが行われていた。

 

 どれくらいの敵を倒したのか。
美しかった床は、オークやワーグの死骸と共にエルフの勇敢な戦士たちの亡骸で埋め尽くされる。
あちこちで火の手が上がる。

 後から後から入り込んでくる悪鬼たち。

 グロールフィンデルは、数えきれないほどのオークたちがトゥアゴンに飛び掛るのを見た。
それらをなぎ倒し、悪鬼の残骸から王を引き上げる。

「私は、もうだめだ。・・・・トゥオルはどこだ? イドリルは、エアレンディルは・・・?」

 グロールフィンデルは、王の手をしっかりと握った。

「守ってやってくれ、グロールフィンデル。我らの、最後の望み、なのだ」

「わかりました。必ず・・・必ず、お守りします」

「イドリルに・・・・彼らに、愛していると」

「伝えます」

 トゥアゴンは、最後にグロールフィンデルの身体を押しやり、そして命の炎を消した。

 

 立ち上がったグロールフィンデルは、
残ったオークたちを、まったく無慈悲に切り裂き、王宮の広場に戻った。

「!」

 信じられないことに、そこにはゴスモグの死骸が横たわっていた。

 そして、エクセリオンの亡骸も。

 ぎっと唇を結んで、王宮を顧みる。

 

 燃える。

 あの、美しかった都が。

 白き都が・・・・・。

 

 陥落する・・・。

 

 悪鬼たちを切り裂きながら、イドリルとエアレンディルの名を叫ぶ。

 生きているはずだ。絶対に!

 トゥオルがついているのだから!

 

 噴水の水が、蒸気となって立ちこめる中、グロールフィンデルはついに彼らを見つけた。

 泣き出しそうなエアレンディルは、グロールフィンデルの衣を握った。

「トゥアゴン王は?」

 トゥオルの問いに、首を横に振る。

「では・・・エクセリオンも」 

 今度は、首を縦に振る。

 イドリルの美しい瞳から、大粒の涙が、一粒零れた。
それから彼女は唇を結び、手のひらを握ってグロールフィンデルを見据えた。

「貴方が生きていてよかった。グロールフィンデル。生存者を集めなさい。都を棄てます!」

 

 

 

 退却の道は、決して楽なものではなかった。傷ついたものたちを率いての撤退。
トゥオルとイドリル、エアレンディルが先頭を導き、グロールフィンデルが背後を守る。
せまい山道を抜けかけた時、先頭で悲鳴があがった。

 しまった!

 剣を握ったグロールフィンデルが先頭に急ぐ。

 そこには、オークたちがいた。

 忌まわしきバルログも。

 もう終りだ・・・。女たちは泣き叫んだ。

「諦めるな!」

 オークを切り倒しながら、トゥオルが叫ぶ。
追いついたグロールフィンデルは、オークの群れに立ちはだかった。

「・・・・バルログ・・・!」

 イドリルが悲痛な声をあげる。

「バルログは私が引きつける。先を急ぎなさい」

 グロールフィンデルの言葉に、エアレンディルはその服のすそを掴んだ。

「僕も戦う!」

 エアレンディルを見下ろしたグロールフィンデルは、その手を振り払った。
驚きよろめくエアレンディルを、トゥオルが抱きかかえる。
グロールフィンデルは、腰の帯から短剣を引き抜くと、
それをエアレンディルの手に押付け、そして、わずかに微笑んで見せた。

「父を助け、母を守りなさい。民を導くのだ、エアレンディル!」

 エアレンディルは、驚きの表情を引き締めた。

「行きなさい!」

 イドリルは先に走り出し、トゥオルもエアレンディルを抱えたままその後を追う。

「グロールフィンデル!」

 エアレンディルは叫んだ。

「また・・・・会おう!」

 約束など、できない。グロールフィンデルはちらと笑みを見せ、バルログに向き直った。

 

 さようなら、エアレンディル・・・・。

 愛しい子。

 

 

 

 オークの大群を前に、望みも尽き果てた頃、彼らの前にソロンドールの救援が現れた。

 そして、エアレンディルたちが振り返ったとき・・・・
グロールフィンデルはバルログと共に谷底に落ちていった。

 

 

 

                            〜*〜 

 

 

 

 どれくらいの月日が流れていったのであろう。

 100年か、1000年か。

 あるいは、もっとか。

 

 グロールフィンデルは、高い山の上に、もうずっとそうしていた。

 夢と現実、生と死の狭間。

 光と闇。

 

「お探しいたしました。グロールフィンデル殿」

 その声に、ふと目を上げる。

 誰かを見るのは、何万年ぶりか?

 黒髪の、若いエルフが立っている。

「お迎えにあがりました」

 その声色には、喜びも悲しみもない。

 まるで、生きることに倦み疲れた上古のエルフのようだ。

「そなたの名と主を述べなさい」

「私はエアレンディルの子、エルロンド。主はリンドンのギル=ガラド王です」

 ギル=ガラド・・・・そうか、フィンゴンの息子、だな? たしか、エレニオンと言った。
トゥアゴン亡き後の、上級王として指名されたのは、彼であったか。

「して、そなたの父はどうされた?」

 エルロンドは、黙って空を見上げた。おりしも、夕暮れが近付きつつあった。
一際輝く星が、天上を駆ける。

 

 エアレンディル・・・・・知っていた、気がする。見ていた気がする。

 私は、君を守れたのか・・・?

 

 グロールフィンデルは、ゆっくりと立ち上がった。

「わかった。そなたの主の元に、案内しなさい、エルロンド」

 深く頭を下げ、エルロンドが歩き出す。

 

 私が蘇ったのは・・・ギル=ガラドを補佐する為か。

 違うな。ギル=ガラドは私など必要としないだろう。

 なら何故・・・・?

 

「エルロンド」

 名を呼ぶと、そのエルフは立ち止まって振向いた。

 聡明な顔立ちをしている。瞳の色が、叡智に溢れている。

 

 ちがう。

 イドリルが望んだのは、そんなことではない。

 

 喜びと愛に包まれて、幸福な時間を過させたかったのだ。

 

 エアレンディルは・・・・・

 ゴンドリンでの幸福な時間を、あの満ち足りた日々を、

 己の息子に与えることができなかったのか。

 

「なんでしょうか、グロールフィンデル殿」

 笑うことがないのか、幸福を感じることがないのか・・・・。

 

 なら、二度と私も、幸福な時間に微笑むまい。

 我が主はトゥアゴン王のみ。

 我が仕えるのは、その血筋の者。

 

「呼び棄ててよい。私は・・・そなたに仕えるのだ、エルロンド殿」

 

 天上を駆ける、エアレンディルの星。

 

 エクセリオン、私は、もう誰も愛することはないだろう。